声に出したい日本語、心のベストテン第一位は「カガヤクナツニ」と「アーナルガ・シワクチャジャネーカー」だった

日本人のおよそ8割が「声に出したい日本語」っていうものを何かしら持っているわけで、どうやら日本人の私も「声に出したい日本語」というのをいくつか抱えております。肘に爆弾抱えてる風に言いますけれども、抱えてるっつって。ちなみに膝の方は爆弾ではなく矢ですもちろんスカイリム世代。


で、その昔は「モンデール副大統領候補」がナンバーワンだったわけですけれども、いつの頃からか私の中での声に出したい日本語心のベストテン第一位は「カガヤクナツニ」と「アーナルガ・シワクチャジャネーカー」になったのですね。うん。


「カガヤクナツニ」は90年ごろに走ってた競走馬で一勝もできないまま引退したと記憶しておりまして、でもだって一勝もできなかった馬が「カガヤクナツニ」なんて名前めちゃくちゃストーリー展開が気になるというか、これがジャンプ漫画だったら主人公補正がかかって最終的に魔王の二、三人倒すレベル。575の7文字っていうのも上の句、下の句との繋ぎも万能で日常使いに超べんりな言葉です。
上司の合いの手にも使えて、社長の覚えも良くなり、筋肉もムキムキに、浜辺で女の子にもモテモテでマッタク、カンタン、ダ、レベルの言葉すぎるし、コスパ厨のオレたちの琴線にもビキビキ触れます実際。


一方「アーナルガ・シワクチャジャネーカー」は学生プロレスラーのリングネームですね。いずこかの州知事に似てるのは別として、なんというか「声に出したい日本語」って言いながらもちょっと声に出すのもハバカるっつーか、会社で口に出したら女子社員に一目置かれるレベル。悪いいちもくの方で。そういう禁断の果実感があると思う、アーナルガには。アーナルガって急に呼び捨てにしましたけれども。


そしてこの二つの言葉をなぜ好きになったのか共通点を考えるにそれは「あたたかな視線」があるからなのではないかな。一勝もできなかったカガヤクナツニは一体あの夏をどうしたかったのだろう、それは未来への決意だったのか過去への後悔なのか。そんなことを考えてしまう。そんな風にカガヤクナツニのことを考えてしまう私がいる。しかも20年以上前の馬のことをだ。
私がカガヤクナツニのことを思い出すとき、90年代に学生だった自分のことを、そしてあの夏のことを思い出す。輝いてはいなかったけれども、少なくとも自分にとっては楽しかったあの夏のことを。そんな力がある。この名前には。


もちろん「アーナルガ」にも同じく「あたたかな視線」がある。「アーナルガ」の「アーナル」を見る第三者が「アーナルガ」に対して「シワクチャジャネーカー!」と言い放つ。そこには見られるものと見るものという関係性が現れていて、昔も今も「アーナルガ」がその場所に一人きりじゃないっていうことを保証してくれている。いつだってアーナルガは誰かに見られていて、自らのしわくちゃ感にさいなまれながらもそうやって声をかけてくれる相手の存在に感謝をする。そういう「視線」がある。そこにはあたたかさがある。


この二つの言葉をモンデールより好きになってしまった私はたぶん年をとったのかな、と思う。モンデールには一方的にモンデルような若さゆえの勢いはあるけれども、それは独りよがりのモンデールではないだろうか。一方で私や君があの「カガヤクナツニ」「アーナルガ・シワクチャジャネーカー」とののしられる。そこには追慕の気持ちと一人きりじゃない人生を感じることができる。年をとった私にはそれがとてもあたたかく感じられるのだ。


ふと声に出す。「カガヤクナツニ」「アーナルガ・シワクチャジャネーカー」
心にあたたかいものを感じる。
そして改めて思い出す。声に出したい日本語、心のベストテン第一位は「カガヤクナツニ」と「アーナルガ・シワクチャジャネーカー」だったのだ、と。